TBS スパモク !!ニッポン大女優伝説
昭和を彩り、日本中の人々に夢を与えた名女優の作品にかけた思いや、知られざる真実の姿が秘蔵映像と共に蘇る。今や伝説として語られる驚くべきエピソードも満載の2時間!!日本の芸能史に燦然と輝く名女優の美しさ、素晴らしい演技の数々が秘蔵映像と共に蘇る。さらに昭和を彩り、日本中の人々に夢を与えた名女優達の作品にかけた思いや知られざる真実の姿、そして今や伝説として語られる驚くべきエピソードを紹介。またスタジオには、名女優を語るにふさわしい豪華ゲストが勢揃いし、大いに昭和を語る。
まぁ、それほど凄い番組ではなかったけれど(笑)、トリビア的なものを書き留めておこう。岡田茉莉子のエピソードが興味深い。
北原三枝 石原裕次郎を虜にしたワンシーン
「狂った果実」(1956年・中平康監督)のキスシーンは石原裕次郎が後に最も緊張したワンシーンと語った。当時石原裕次郎はデビュー2作目の新人で、北原三枝は30本以上の映画に出演していた大スターだった。1960年に二人は結婚。北原は女優を引退し、現在は石原プロの代表取締役をやっている。北原は高橋英樹がニューフェースオーディションを受けたときの審査委員長でもあった。
由美かおる お茶の間を釘付け 8時半の女
「水戸黄門」に24年間レギュラー出演。瞬間視聴率が上がるという名物の入浴シーンは200回以上放送された。入浴シーンを減らしたら視聴者から抗議が殺到した。何時何分に入浴シーンがあるかというクイズがクイズ番組で取り上げられたのをプロデューサーが知り、毎回入浴シーンが登場するようになった。15歳の時のジーンズが未だにはける。
篠ひろ子 日本中が涙した美人女将
仕事以外はすっぴん。僅かな時間だったがTVドラマ「時間ですよ」のおりょう役が当たり役となった。白血病でなくなる設定だったので、視聴者から「おりょうさんを助けて欲しい」との声が多数寄せられた。
司葉子 母親と共に掴んだ栄光
デビュー時は華やかな芸能界に劣等感をいだいていたが、小津安二郎監督に「個性がないのが欠点だと思って無理に個性をだそうとするのは間違っている。個性がないのが個性。ふわふわした淡白さがあなたの個性だと自信を持ちなさい」と言われ自信を持てた。「紀ノ川」(1966年・中村登監督)で主人公”花”を演じるにあたっては、女手ひとつで育ててくれた母親の姿を投影し、母親が実際に使ったかんざしや白無垢を使った。本作で主演女優賞を総ナメした。
田中絹代 ストイック女優がくだした驚愕の決断
「春琴抄 お琴と佐助」(1935年・島津保次郎監督)出演時、盲目の主人公を演じるために、目をつぶって日常生活を送った。また、琴を習い指から出血するまで練習した。「真昼の円舞曲」(1949年・吉村公三郎監督)では主人公の10代〜70代まで演じる事となったが、当時39歳で老人役を演じるには若すぎたので前歯を抜いて迫真の演技をみせた。
岡田茉莉子 運命づけられた女優への道
元宝塚ジェンヌの母(田鶴園子)と新潟で二人暮らしをしていた女子高生時代に「瀧の白糸」(1933年・溝口健二監督)を見て感動。それには田鶴園子の死別した夫であり、岡田の父親である名優・岡田時彦が出演していた。芸能界の厳しさを知っていた母親は岡田に自分たちのことを隠していたが、その時初めて出演していたのが父であることを告げた。その後、女優になるかどうか悩んでいた岡田に母は「お父さんの映画を偶然見てしまったのは、お父さんがあなたを女優にするために呼び寄せた」と言い、岡田は女優になることを決心した。デビューしてまもなく出演した「思春期」(1952年・丸山誠治監督)のポスターは街中で盗まれた。「悪女の季節」(1958年・渋谷実監督)撮影中にバイク事故にあい足を怪我したが、無理をおして撮影を続行し助演女優賞を受賞した。
若尾文子 役作りの為に踏み込んだ”禁断の領域”!!
デビュー作「死の街を脱れて」(1952年・小石栄一監督)では髪の毛を刈り込んで撮影にのぞんだ。「赤線地帯」(1956年・溝口健二監督)で娼婦の役を演じる際には、吉原に連日通って観察をした。
吉永小百合 国民的女優の”映画愛”
デビュー間もない「ガラスの中の少女」(1960年・若杉光夫監督)では、まだ15歳だったが、湖に浮かんで息絶えるシーンで演技に没入するあまり失神するほどの熱演を見せた。「青い山脈」(1963年・西河克己監督)「伊豆の踊り子」(1963年・西河克己監督)の頃はファンレターが一日1000通も届く人気で、撮影中に滞在していた旅館に見物人が押しかけ旅館が揺れるほどだった。「青い山脈」の公開日、日活は上野の駅前に大型バスを2台用意し映画館に入りきれない客を別の映画館に運んだ。「潮騒」(1964年・森永健次郎監督)では照明スタッフがストライキするなか、他の俳優たちと照明をこなし撮影を続行した。
浜美枝 バスガールからボンドガールへ!
バスガールをしているときスカウトを受けた。本人は断ったがバス会社と東宝が勝手に契約し、芸能界に入ることになった。「007は二度死ぬ」(1967年・ルイス・ギルバート監督)では日本人唯一のボンドガールを演じた。何も知らされずホテルに行って色々話したのが面接だった。
岸恵子 女性が憧れた元祖ファッションリーダー
「君の名は」(1953年〜1954年・大庭秀雄監督)でショールを首から頭にかけて巻く”真知子巻き”がブームになった。これは北海道ロケで寒さしのぎにたまたまやったものだった。
京マチ子 世界の黒澤を唸らせた体当たり女優
「偽れる盛装」(1951年・吉村公三郎監督)で、撮影車と接触事故を起こしたが「迫力のある絵がとれてよかった」と言い放った。「羅生門」(1950年・黒澤明監督)の撮影前に京にあった黒澤は最初は難色を示したが、二度目にあったときに眉毛をそって現れた京を見て起用を決めた。