NHK ハイビジョン特集「じゃがいもが世界を変えた」

ジャガイモは、人類の歴史を動かしてきた。あのナポレオンの強さの秘密、世界市場を制したアメリカ・ポテト王。男爵イモに秘められた恋…人とイモの壮大な物語を探る。
【司会】今田耕司,【ゲスト】クリス・ペプラ−、フローラン・ダバディ、LIZA、アルベルト城間

 
初めて知ることの多い番組だった。フランスでの普及のちょっとひねった方法は実にフランス人らしいなぁと感心したし、男爵いもの男爵はなんだろうという疑問も無事解消した(笑)原種の毒抜き方法は、食文化全般でいくつも例はあるけれど、どうやってあんな手間のかかる方法を編みだしたんだろうと本当に驚いた。
 

欧州における受容の歴史

 欧州にじゃがいもが初めて持ち込まれたのは16世紀。スペイン人が南米から持ち込んだ。イギリスには16世紀後半、ウォルター・ローリーがエリザベス女王に献上したのが最初とされる。その際、料理人が誤って有害な葉と茎を調理したため女王が食中毒を起こしたとの話も伝わっている。また、フランスでは地方議会が「聖書に載っていない」という理由で食用を禁止するなど、当初は食品ではなく花を鑑賞するものとして扱われていた。

 じゃがいもが食品として大きな位置を占めるようになったのは18世紀中頃である。プロイセンフリードリヒ二世は、1756年にじゃがいも令を公布し領民たちにじゃがいもの栽培を推奨した。これには当時の欧州が三十年戦争で荒廃し、加えて小氷河期の到来により飢餓状況にあったためである。じゃがいもは「寒さに強い」「踏まれても大丈夫」「必要な時に収穫でき、収量も小麦の3倍」と、富国強兵を目指すプロイセンにとってはうってつけの作物であった。1778年頃のバイエルン継承戦争は別名じゃがいも戦争(両軍の兵士が互いの領地からじゃがいもを奪い合った)とも呼ばれ、この頃にはじゃがいもが現ドイツ地方で一般的な作物として普及していた事がわかる。

1756年ドイツじゃがいも令
じゃがいもを人間及び家畜にとって非常に便利で有益な植物として栽培するよう発令する。
じゃがいもの利便性を国民に理解させ、今年の春の間に栄養のある食べ物として栽培を行うよう指示せよ

 フランスでの普及はプロイセンに比べるとやや遅れた。七年戦争(1756年-1763年)の際に、フランスの従軍薬剤師アントワーヌ・パルマンティエがプロイセン軍の捕虜になり、そこで初めてじゃがいもの食品としての有用性を知った事がきっかけである。パルマンティエは戦後フランスに戻り、当時の王ルイ16世マリー・アントワネットにじゃがいもの花を献上することで貴族の間にじゃがいもブームを起し、栽培のきっかけを作った。その後パルマンティエはパリ郊外にじゃがいも畑を作る。兵士に畑を守らせながらも夜はわざと警備を緩めた。価値のある作物と思った周辺農民は、夜の間に畑からじゃがいもを盗み、これがじゃがいも普及に一役買ったというエピソードもある。フランス革命ルイ16世マリー・アントワネットは処刑されたが、その後に権力を握ったナポレオンもじゃがいもを重視したため、結果、ナポレオンの欧州支配と共にじゃがいもも広く普及する事となった。
 フランス料理にはパルマンティエという名前のついたじゃがいも料理があるが、これはアントワーヌ・パルマンティエに由来する。

男爵いも誕生秘話

 じゃがいもが日本に伝わったのは江戸時代で、オランダによりジャカルタジャガタラ)経由で導入された。ジャガタラから伝わったいも=”じゃがたらいも”がじゃがいもの語源である。
 「男爵いも」は日本で栽培されているじゃがいもの作付面積の3割を占める。このじゃがいもは文字通り明治時代に川田龍吉”男爵”(1856〜1951)によって導入された品種である。川田龍吉は高知県の生まれで、27歳の時にグラスゴーに留学し、そこで現地の娘ジェニー・イーディーと恋に落ちた。結婚を約束して帰国した川田だったが、親の反対でその恋は実ることはなかった。その後造船業で身を立てた川田は50歳の時に函館を訪れ、グラスゴーに似ているその風土に惹かれた。ついには隣町(亀田郡七飯町)に土地を購入し、イギリスから取り寄せたじゃがいもの栽培を始めた。そしてアイリッシュコブラーという品種が最も土地に適していることを発見し、それが今日男爵いもとして広く栽培される品種となった。

じゃがいもの原産地、ペルー

 じゃがいもは中央アンデスの標高4000mあたりに自生する。古くからアンデスの人々は食用としていたようで、紀元前1000〜500年頃の埋葬品にはジャガイモをデザインした土器もある。野生種には多くの有害成分が含まれているが、アンデスの人々は手間をかけて毒抜きをする。まずは野外に2昼夜放置して凍結、乾燥を繰り返す。その後足で踏んでじゃがいもの細胞の中から有害成分を水分と共に搾り出す。さらに2週間干せば毒抜きが完了する。こうして毒抜きしたじゃがいもはチューニョと呼ばれ、スープの具材などにして食べる。チューニョは乾燥しているため長期間の保存にも耐える。
 じゃがいもは痩せた土地でも栽培ができるため、チチカカ湖に住む人々も浮島の上に僅かな土を入れジャガイモを栽培している。

アメリカ人とじゃがいも

 アメリカ人の間でエジソン、フォードと並び三大発明王の一人として讃えられるルーサー・バーバンク(1849〜1926)は植物学者で、バーバンク種というじゃがいもの品種を作り出した。バーバンク種は大型で育てやすく病気にも強いという特徴を持ち、後世の人がさらに品種改良して作り出したラセット・バーバンク種はファーストフード店のフライドポテトに用いられる。
 J・R・シンプロット(1909〜2008)はポテト王とも呼ばれる実業家で、農業関連会社シンプロット社の創業者。第二次世界大戦時に兵隊食として用いられる乾燥ポテトの製造で財を成した。戦後は乾燥ポテトの需要減で一時は不振に陥ったものの、冷凍フライドポテトの開発に成功し、現在では大手ファーストフードチェーンへの大口納入業者となった。

じゃがいもの未来

 ペルーのリマにある国際ポテトセンターでは9900種ものじゃがいもの品種の遺伝子を保存しており、温暖化で乾燥化が予想される将来に備えて乾燥に強い品種づくりも進めている。